Dino Gavina

ディノ・ガヴィーナ
破壊と創造のデザイン史

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“真実? それ以上に破壊的なものはない”
ディノ・ガヴィーナの時代

 ステレオタイプな表現を恐れなければ、ディノ・ガヴィーナという人は、イタリアらしい本能と直感、人間味にあふれた起業家だった。同時に、彼のようにデザインへの衝動に突き動かされた起業家は以降のイタリアで登場していないように見える。

 ディノ・ガヴィーナは1922年、イタリア・ボローニャ郊外のサン・ジョヴァンニ・イン・ペルシチェロに生まれた。2022年は生誕100年の節目で、本国イタリアでは複数の展覧会やカンファレンスが開催されていた。これを機に誰もがあらためて「ガヴィーナとは誰だったのか」と問うたことだろう。

 イタリアでまだ「デザイン」という言葉が使われず、建築家たちが空間と統合的にものの「プロジェッタツィオーネ」を手がけていた戦後に活動を開始した彼は、ヨーロッパに限らず日本とも深い関係を結んでいる。ここでは彼の仕事と友人たちを、あぶり出してみたいと思う。ガヴィーナは次々と周囲に化学反応を引き起こし多様な文化を生み出したので、うっすらとした影しか描けないのは承知だが、それはイタリアモダンデザインの歴史の一部そのものだから。
当時の物語の多くは、彼と時間をともにした人々の記憶と、アーカイブのなかに見つかる。

 ガヴィーナは青年時代に舞台美術へ情熱を抱き、やがて第二次世界大戦後である1950年のボローニャに〈ディノaガヴィーナ〉を設立し、家具の取り扱いをはじめた。初めて販売したのはアノニマスデザインの名作、スチールロッドの構造体に皮革やキャンバスのシートを組み合わせた椅子〈トリポリーナ〉で、2年後には木の構造体によるトリポリーナを手がける。さらに後には、ものの知性を見抜く才に長けた建築家ピエル・ジャコモ・カスティリオーニの助言を受け、大工の作業台の脚をリデザインした「カヴァッレット」もカタログに入れている。

 とはいえこうした選択がカタログ全体を貫くわけではない。決定的なできごとは54年、アーティスト、ルーチョ・フォンタナとの出会いだった。ガヴィーナ自身「フォンタナが私をデザインの道へ導いた」と記しているように、フォンタナが彼を連れミラノトリエンナーレで仲間たちに紹介したことが生涯の人間関係の基盤となる。当時のイタリアの「プロジェッタツィオーネ」の主役の多くは「建築家」たちで、ガヴィーナはトビア・スカルパ(〈Pigreco〉1959)、イニャツィオ・ガルデッラ(〈Digamma〉1957)、カスティリオーニ兄弟(〈Ierna〉1959)らと協働し、名作家具を生み出していった。そしてもう一人の主役が日本人建築家、高濱和秀だ。

 高濱は57年、ミラノ・トリエンナーレ日本パビリオンの会場構成に携わっており、ミラノの現場でガヴィーナと出会った。ガヴィーナは高濱に惚れ込み、同年早々にシーティングのシリーズ〈Naeko〉を発表する。イタリアの建築家の誰よりも早く高濱のプロジェクトが「工業的に」ガヴィーナが生産する家具第一号となったのだ。

 高濱は一旦帰国するも数年後にはボローニャに戻り、ガヴィーナとともに活動し多くの優れた作品を残している。

Dino Gavina, 1969
© Centre Pompidou, mnam-cci, Dist. rmn-Grand Palais / Image Centre Pompidou, mnam-cci / distributed by amf
© man ray 2015 trust / adagp, Paris & jaspar, Tokyo, 2023 x0185

「もっともエモーショナルで直感的」な経営者、
ガヴィーナの60年代

 ガヴィーナは会社の成長に伴い、1960年に株式会社として法人化するとともに社名を〈ガヴィーナ〉に変更し、工業化を進める。その代表として58年に出会った建築家、カルロ・スカルパを呼んでいるのは意外な事実だ。スカルパは建築の時流に乗ることがなかったため、当時、ごく一部からしか評価されていなかったという。ガヴィーナは孤立した建築家の才能を高く評価し、生涯の友であり続けた。スカルパは後に設立された〈シモン〉で初めて家具を手がけ、テーブル〈Doge〉(1968)などの名作を残すことになる。

 そしてこの時代にガヴィーナは、モダンの核心に向かうため大胆な行動に出た。ニューヨークへ飛び、マルセル・ブロイヤーのスタジオの扉を叩き、バウハウスの記念碑的プロジェクトの工業生産を任せてほしいと願い出たのだ。これが62年に〈ワシリー〉や〈チェスカ〉と名付けられ、ほぼ40年を経て初めて製品化される。ブロイヤーは英語もドイツ語も通じない突然の訪問者について、この業界で「もっともエモーショナルで直感的な男」と好意を持ち、友人となった。

 同時期には、イタリア家具業界の老舗〈カッシーナ〉の創業者のひとり、チェーザレ・カッシーナとともに、モダンデザインに求められる照明器具のメーカーを立ち上げることを決心し〈フロス〉を創設する。64年にオーナーはガンディーニ家に移るが、〈ヴィスコンテア〉や〈アルコ〉などの名作を生んだことは周知の通りである。

 こうして60年代後半まで数々の冒険を続けたガヴィーナだが、やがてスランプが訪れる。「さらに加える本質的に新しいことはこれ以上ないと感じ、家具や照明器具への関心を失った」こと、または経営の問題が原因となったのか、68年に会社を閉じた。そんな彼を鼓舞したのもまたスカルパであり、マリア・シモンチーニら友人だった。そして〈ガヴィーナ〉は〈シモン〉へと引き継がれる。

 ガヴィーナは〈シモン〉で〈ウルトララツィオナーレ〉と名付けたブランドを打ち立てる。これは70年代を目前に「合理主義を超えること、あるいはモダニズム運動の限界から解放されること」を意図した名前だ。建築のモダニズムの潮流とは異なる詩的空間を育んだカルロ・スカルパのプロジェクトが、代表作となったことは偶然ではない意味があるだろう。

ガヴィーナのもう一つの冒険
デザインとアートは日常のなかに融合できるか

 ガヴィーナの生み出したものはあまりに芳醇すぎてここにまとめきれないとはいえ、もちろんアートとの関係を飛ばすわけにはいかない。ここでの主役はマン・レイに移る。ガヴィーナの娘、イルカ・アレッサンドラはこう語る。

 「父はまさに本能的な性格でした。尽きることのない好奇心によって突き動かされ、ある人物に興味を持つと、あらゆる方法で接触し関係を築こうとしました。なかでも、アーティストのルーチョ・フォンタナやマン・レイとの交流は欠かせないものでした。父はパリのマン・レイのアトリエに突如現れ、はじめは拒絶されながらも結局受け入れられ、以来、無二の親友となったのです」

  1960年代にはマン・レイを通じ、当時、イタリアではほぼ無名だったマルセル・デュシャンと知己を得、63年にローマのショールームで「マルセル・デュシャン:レディメイド」展を開催した(ディスプレイデザインはカルロ・スカルパ!)。デュシャンは気難しそうな印象が強いが、オープン時の写真には、ブロイヤーの「ワシリー」でくつろぎ、ガヴィーナらと笑う姿が残る。デュシャンは「これまででもっとも素晴らしい展覧会」と評したという。レディメイドをデザインにもたらした先駆者、カスティリオーニ兄弟がここに同席したかは定かでない。

 デザインに止まらずアート展の数々も手がけたガヴィーナは50歳を目前にした71年、「ウルトラモービレ」というもう一つの冒険へと踏み出す。「ウルトラモービレ」は住空間に「機能する」アートを統合しようとする試みであり、マン・レイをはじめ、デュシャン、ルネ・マグリット、ロベルト・マッタ、メレット・オッペンハイムらが参加したほか、未来派の芸術家ジャコモ・バッラのオリジナルの図案を実現した屏風など、豊かなコレクションを形成している。

「マルセル・ブロイヤーとともに家具の工業生産は文化となり、ウルトラモービレとともに詩がもたらされた」とガヴィーナは記している。

破壊者とはだれか
一枚の伝説的な名刺について

最後に語っておきたいこと、それは彼の伝説の一つになった名刺についてだ。

表:ディノ・ガヴィーナ 破壊者(sovversivo)
裏:真実?これ以上破壊的なものはない マン・レイ

と印刷され、住所はない。この名刺について、イルカ・アレッサンドラは「彼のあり方を余すところなく表現している」と語る。なぜ破壊者なのか、なにを破壊し、なにをもたらしたのだろうか。

 時代の大きな転換期である戦後社会に、工業生産のなかに美を宿らせる方法としてデザインを根づかせようとする行為そのものが、破壊から生まれることは想像ができる。新たな場所に、無名のデザインからアーカイブモデルの再編集、新たな時代のデザインを生み出す土壌を耕し、さらにはアートとデザインの世界を融合するこころみにまで突き進んだ人物。それでももちろんガヴィーナは自身で「創造者」などとは呼ばないに違いない。

 イタリア人らしい歴史観から見れば、人類がモノをつくってきた長い時間軸のなかで「デザイン」はほんの一瞬の火花だ。ガヴィーナは乗り越えるために破壊して創造するが、それもいずれ破壊されることを知っていただろう。その繰り返しを経て彼らがつくったものは現在の私たちのもとへ届いている。

 イタリアデザインの発展は、ガヴィーナのような情熱と人間性、審美眼を備えた起業家と建築家・デザイナーたちとのある時期の共作であって、彼らは「ここにはない」社会のユートピアを心に持っていた。ガヴィーナの最後の挑戦の名は〈パラディーゾテレストレ〉、地上の楽園なのである。彼は時代を超えて「行動せよ」と呼びかけ、今も私たちを巻き込もうとしている。

Man Ray, Marcel Duchamp, Dino Gavina
1966, Paris (photo: F. De Col Tana) / Image courtesy of Cassina ixc.
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Credits

BUNDLE ARTICLE No.003
Direction: Masato Kawai
Text: Kaoru Tashiro (Article, Interviews, Relationship Chart, Chronology)
Editing: Yoshinao Yamada
Design: Jacopo Drago

Cooperation:
Artek
Cassina ixc.
FLOS JAPAN
Fujitani Shouten
Gallery Cellar
Galerie Saint Guillaume
Knoll Japan
LYNN INKOOP
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POST
SOMEWHERE TOKYO
UNDERGROUND

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