ル・コルビュジエ、シャルロット・ペリアン、ジャン・プルーヴェ。20世紀のパリで活躍したこの3人は、 時に協働しながらモダニズムに基づく建築や家具を数多く残した。進来廉はこの3人とそれぞれに接点をもち、その経験を活動の糧にした、日本人としては稀有な建築家だった。
進来は1950年に東京大学を卒業後、前川國男の設計事務所で働いている。前川は1928年からパリでル・コルビュジエに師事し、当時は第一線の建築家だった。1955年、東京・上野の国立西洋美術館をル・コルビュジエが設計すると知った進来は、このプロジェクトへの参加を視野に入れて渡仏し、前川の紹介で巨匠のアトリエを訪れる。その場での入所は叶わなかったが、ル・コルビュジエのもとから独立して間もないジョルジュ・キャンディリスの設計事務所で働くことができた。1958年に進来は、ル・コルビュジエによるベルリン都市計画のコンペ案の制作に製図担当として参加。短期間ではあったが、巨匠の事務所に席をもち間近で接した印象は強烈だったようだ。ただしその都市計画について、進来は「各部分のほとんどは既知のものだった」とも述べている。すでに作品集を通して、彼はル・コルビュジエの過去の仕事の細部にまで目を凝らしていたのだ。ル・コルビュジエに師事した日本人建築家としては前川、坂倉準三、吉阪隆正が有名だが、進来もそのひとりと数えられる。

Air France Tokyo
1960 (photo: ©︎二川幸夫 )
エールフランス東京の日比谷営業所。当時、進来はフランスに住んでおり、ペリアンと来日してこのプロジェクトに参加。坂倉準三の設計事務所とともに実施設計を手がけた。ペリアンはロンドン、パリ、大阪でもエールフランスの営業所をデザインした。

St.Martin des Belles Villes
1962
キャンディリス、ペリアン、プルーヴェ、進来ら7名のチームで参加したフランス南部アルプス地方のスキー場のためのコンペ案。2万ベッドをもつ宿泊施設などで構成され、当時としてはフランス最大規模のスキー場計画だったという。
またペリアンは、1928年から10年間にわたりル・コルビュジエの設計事務所に在籍し、その後は日本のデザイン振興のため来日したこともあるデザイナーだ。進来は渡仏の直前、デザイナーの柳宗理の紹介により東京で彼女と出会っている。その縁もあってか、ふたりの交流は渡仏直後からペリアンの晩年まで続く。ル・コルビュジエが建物を設計し、インテリアデザインをペリアンが手がけたブラジル学生会館(1959年)では、進来が彼女の仕事を手伝った。東京と大阪のエールフランスの事務所も、ペリアン、坂倉、進来の協働によって1960年に完成している。また1980年代から柳とともにペリアンの展覧会について話し合っていた進来は、それを1998年の東京・新宿での「シャルロット・ペリアン」展として成就させた。この展覧会のため彼は4度もパリの彼女のもとを訪れ、全体を統括しながら会場構成を担当している。
プルーヴェもまた、進来にとって早くから憧れの存在であり、フランス滞在時は一緒にいくつものプロジェクトを行う。建築を学校で学ぶことなく、建設エンジニアとしてその資質を磨いたプルーヴェは、ル・コルビュジエからもその腕前を高く認められる存在だった。ペリアンの家具の代表作の多くも、特に金属加工を得意としたプルーヴェの工房で制作されている。進来は彼を、ビス1本から都市までを同時に考えて設計できる人物だといい、「ル・コルビュジエに匹敵する巨匠」と絶賛した。
ル・コルビュジエの周囲にあったキャンディリス、ペリアン、プルーヴェらのサークルに、パリ滞在中の進来は自然に溶け込んでいたようだ。1962年には、フランスのサンマルタン・デ・ベルヴィルのスキー場施設の建築コンペに向け、彼らはチームを組んで参加している。これはベッド2万床の宿泊施設と7000台収容の駐車スペースを要する大規模なプロジェクトだった。提出案は採用されなかったものの好評を博し、「選外栄誉賞」のような賞を受けるに至った。
1964年に帰国した進来は、進来廉+レン設計事務所(後にキャビネ・レン・スズキ)を設立し、当初は建築家の真嶋松太と協働しながら、住宅や公共建築はじめ多くの建築プロジェクトに携わった。特に1960年代から70年代にかけての個人住宅は、スキップフロアを用いて複数の空間を結んだ特徴的なものが多く、屋外と室内の関係性に独自の工夫が見られる。また当時の公共建築の代表作である建築家会館(1968年)は、コンペの第1等に進来の案が選ばれ、かつての師であり当時の建築家会館社長だった前川の意向も汲んで設計が進められた。この建物は、モダニストとしての進来の作風がよく表れている。

Expo'70 OSAKA Wacoal + Riccar Pavilion
1970
円錐型の頂点から伸びた柱の上に、大きな丸屋根を載せた斬新なパビリオン。この屋根はヤジロベエに似た原理でバランスを保つ独自の構造を採用していた。展示室は、円錐形の内部やそれを取り囲む部分に配置された。
一方、大胆な造形性で目を引くのは、1970年の大阪万国博覧会のワコール・リッカーミシン館である。この万博で進来は基本構想のアイデアコンペにも出品しており、その案は銀賞の14点に選ばれた。都市や未来について彼が思考の幅を広げていたことを、そこに窺うことができる。
進来が建築家としてなしえたことを、端的に表現するのは難しい。彼が時代とともに変化する都市や技術の発達をふまえ、国際的な視点とディテールの意義をともに重視し、人間との関係性において建築というものを俯瞰しつづけたのは確かだろう。そこにはフランスの先達から学んだ物事だけでなく、世界を見ながら独自に吸収し、思考した成果が生かされていた。彼の残した建築にあらためて光が当てられ、その全貌が明らかになることを待ちたい。

Japan Institute of Architects Office
1968 (photo: © Osamu Murai)
1967年開催のコンペの最優秀作品に選ばれて進来廉が設計した3階建の建物。コンペの審査委員長は建築家の村野藤吾。その実施設計には、進来が師事して尊敬しつづけた建築家であり、建築家会館社長だった前川國男の意向も反映された。

Georges Candilis
フランスに渡った進来は、ル・コルビュジエに師事したギリシャ系フランス人建築家、キャンディリスの事務所に勤めている。この写真は、進来が帰国後にグアムの観光地開発を手がけ、キャンディリスに協力を仰いで、ともにロタ島を訪れた際のもの。
M氏邸
1974
設計監理/キャビネ・レン・スズキ
担当:橋口康夫
構造:安田構造設計事務所
千葉県野田市にあるM氏邸は、進来廉が率いるキャビネ・レン・スズキの設計により1974年に完成した個人住宅である。同じ敷地には母屋である日本家屋があり、そこに両親が住む若い夫妻の家として使われていたものだ。延床面積132㎡超の平家で、それほど大きな住宅ではない。しかし今なおモダンさと斬新さを失わず、建築家の瑞々しいオリジナリティを伝えている。
この家の施主である茂木さんによると、設計の際に依頼したのは、生活感がなくアートや家具が映える建物であること。インテリアとエクステリアが融合するような雰囲気を希望した一方、和室は不要と伝えたという。キャビネ・レン・スズキからは、空間構成の自由度が高い壁構造を提案され、それを受け入れることにした。

完成した空間において、最も広く特徴豊かなのはリビングルーム。南側と西側に開口部があり、玄昌石張りの床はほぼ同じ高さのままテラスへと繋がって、開放感をもたらした。また屋根の棟梁としてH鋼を現しで使い、これが室内から屋外へと突き抜けている。H鋼の棟の上には隠れるようにトップライトを設け、日中は自然光が室内を奥まで照らすようにした。空間を明確に分割せず、一連のものとして捉える視点は、この家の設計に一貫するようだ。キャビネ・レン・スズキの担当者だった橋口康夫は、「材料・色彩の種類を少なくすることによって空間の連続性を表現」したと述べている。
リビングルームの一隅にある暖炉は、家全体の中ではほぼ中央に配置された。その付近の2段のステップを上がるとダイニングスペースがあり、さらにキッチンへと通じる。一方、リビングルームの北側にあるドアは、2つのベッドルームとバスルームへ通じていた。居住空間以外にも、敷地の塀が住宅と一体のものとしてデザインされた点や、母屋との関係性から高さを抑えた屋根など、建築的な見どころは多い。
「隣に日本家屋があるので、この家では日本の家の香りをなくしたかった」と茂木さんは話す。現代作品をはじめ幅広いアートを好み、音楽はジャズ、飲み物はワインを好んだ茂木夫妻は、当時の日本の生活文化の先端を行くライフスタイルを送っていたに違いない。そんな好みに、パリを代表するモダニストたちの間で経験を積んだ進来の作風はとてもふさわしかった。ダイニングスペースから室内を見下ろす感覚や、効果的に使われたピクチャーウィンドウを、茂木さんは特に気に入ったという。暖炉の周囲のグリーンのモザイクタイルは、進来がヨーロッパで見つけたものをもとに、日本で入手できるものを探して使用している。
進来廉が手がけた住宅建築で、その空間を誰もが体験できる場所は他にない。この家には、これから新しい文化のひとつの拠点となる十分なポテンシャルが秘められている。



進来廉
1926年生まれ。東京大学建築学科卒業後、1950年前川國男建築設計事務所入所、55年渡仏。ジョルジュ・キャンディリス、ル・コルビュジエ、ジャン・プルーヴェ、シャルロット・ペリアンらに師事。63年帰国、64年レン設計事務所設立。万博パビリオンや公共施設、ホテル、商業施設、住宅まで幅広く手掛ける。東京大学建築学科講師、横浜国立大学建築学科大学院講師、東京電機大学建築学科教授を務める。
2009年逝去。
Credits
2022/05
Publisher: BUNDLESTUDIO
Director: Masato Kawai
Photo: Sohei Oya
Text: Takahiro Tsuchida
Art Director: Jacopo Drago
Editor: Masako Sato
Cooperation: Kikuko Mogi, Yasuo Hashiguchi, Takashi Suzuki, Masanori Kohno, Guen Bertheau-Suzuki
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