井上有一
1916-1985
1916年に東京で生まれた井上有一は、現代書家であると同時に教師であった人物だ。東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)で学び、1935年から1976年までの41年間にわたって教職に就いた。「書は万人の芸術である。日常使用している文字によって、誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。」(書の解放. 『墨美』9号. 1952年)との言葉を遺した有一は、職業芸術家としての道を拒んだ。そうすることで生涯を賭して書の新たな可能性を追い続けたのだろう。有一は1957年に開催されたサンパウロ・ビエンナーレへ参加を求められ、『愚徹』をはじめとした書を出展した。その作品がイギリス人美術評論家のハーバート・リードに注目され、翌年に刊行されたリードの著作『近代絵画史』に作品が掲載される。1940年代後半にアメリカ・ニューヨークで始まった抽象表現主義などの新たなアートの動向に触れるなか、リードは、ジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、ピエール・スーラージュらとともに有一を取り上げた。中国に起源をもつ東洋の造形芸術であった書が、抽象芸術の文脈で語られた瞬間といえるだろう。1959年にはドイツ人キュレーターのカスパー・ケーニヒの推薦で「ドクメンタ2」に出品。さらに1971年には、初作品集『花の書帖』の刊行とともに初個展を開催する。1950年代から海外での知名度を高めていった有一は、晩年の1980年代に至るまで、生涯を通じて制作に貪欲であった。次々と新たな技法に挑んだことでも知られ、凍らせたり、ボンドを混ぜたりと、墨そのものへの探求はもちろん、表現と技法への飽くなき挑戦が魅力と言える。墨をたっぷり含ませた大筆で、身の丈より大きな和紙に等身大の文字を書いた有一。そこに記された墨の塊のような文字は、その意味をわからずとも目をそらすことのできない気魄が宿る。絵画的、彫刻的ともいえる、生命力みなぎる表現は伝統的な書法と一線を画すものだ。冒頭で引用した有一の言葉には続きがある。「書程、生活の中に生かされ得る極めて簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい。」――文字を記すという人類の根源的な行為をアートへ昇華させた希有な存在が井上有一なのだ。
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